<参照・引用/Yahoo! ニュース(日経Biz Gate)> 大名人事からみた「忠臣蔵」 2021.12.14 小林 勝
大名人事からみた「忠臣蔵」の討ち入り
大名人事からみた「忠臣蔵」の討ち入り <参照・引用/Yahoo! ニュース(日経Biz Gate)>
赤穂義士の墓所がある泉岳寺(東京・港)
浅野 内匠頭(あさの たくみのかみ)
吉良 上野介(きら こうずけのすけ)
「時に元禄15年(1702年)12月14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀陣太鼓」……忠臣蔵のストーリーは今でも人気だ。
約320年前に、赤穂義士は大石内蔵助を中心に吉良上野介邸(東京・墨田)を急襲した。旧主である浅野内匠頭(長矩)のあだ討ちを果たしたこの事件は、当時から「義挙」と称賛され、現代でも米ハーバード大の日本研究のテーマのひとつに挙げられる。他方、徳川幕府側の視点からみれば、現代の企業人事にも通じる分析もできそうだ。歴史研究家の安藤優一郎氏に聞いた。
―― 播州(ばんしゅう/兵庫県)赤穂藩(あこうはん)は、幕府にとってどんなポジションでしょうか。「徳川幕府の大名人事の狙いは、第一に反逆の可能性を事前に摘むことでした。とりわけ西日本における大きな雄藩への監視・けん制は欠かせません。中国地方で最も重要なのは、ズバリ長州藩(毛利家)対策でした」
―― 毛利家は関ケ原の戦い後に約120万石から約36万石まで減封され、表面上は幕藩体制に従っていても、幕府には潜在的な敵性国家(藩)とみなされていたのですね。実際に幕末の倒幕を薩摩藩とともに主導しました。
「徳川家康は関ケ原合戦の直後、山陽道から近畿地方への入り口にあたる姫路藩(兵庫県)に娘婿の池田輝政を据え、『西国の抑え』としました。輝政は現在の姫路城の基となる巨大な城郭を築きました。幕府は、その後も本多・松平・榊原・酒井・と親藩・譜代大名に姫路藩を担当させました。岡山藩には輝政の孫で、名君とうたわれた池田光政の池田家を転封しました」。「2代将軍の秀忠は、豊臣家と関係の深い福島正則を改易した後に、没収した広島城へ親・徳川派の浅野家を和歌山から移しました。赤穂藩はその浅野分家です。5万石の小藩ながら、姫路と岡山の中間地点にある赤穂は軽視できない存在でした」
―― 浅野内匠頭と吉良上野介との確執は、勅使接待役の浅野が、指南役の吉良に付け届けを怠ったという従来の解釈に加え、塩田開発の技術や販路を巡って対立したとの説もあります。赤穂藩は表高(公式の収入)5万石に対して、塩販売などで実高(実際の収入)は1.5倍以上だったともいわれます。「赤穂藩に限らず、瀬戸内海沿いの各藩は一般的に他の地方に比べ富裕でした。海運業者らからの運上金(税金)を期待できました。急な資金が必要な時も、藩内の富裕な商人らから借りることも可能でした」
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安藤優一郎氏は徳川幕府の大名人事の変遷を読み解く
――元禄14年(1701)3月14日、浅野は5代・綱吉将軍がいる江戸城の「松の廊下」で吉良に斬りつけました。浅野は即日切腹を命じられ、改易(領地没収、お家断絶)されました。主君の切腹に異論を唱える声は、その後の赤穂義士らからもあまり聞かれません。ただ「けんか両成敗」が常法なのに吉良が「おとがめ無し」とされたことに、不公平だと強い不満を持ったようです。
「けんか両成敗の思想は一族同士、一村同士の争闘も繰り広げられた中世に生まれ、裁判・調停の長期化や敗訴側が怨恨を長く引きずることを防いで、当時それなりの合理性がありました。幕府が松の廊下の事件で最も重視したのも、けんか両成敗に該当するかどうか、具体的には吉良も抜刀して応戦したかどうかでした。松の廊下における目撃者の証言もあり、吉良が無抵抗だったことが証明されました。浅野が心神耗弱状態ならば別の処分も考えられましたが、平静を取り戻した浅野自身がそれを否定しました。若い大名が一瞬逆上しての事件とみなされ、幕府の処分は適切だったでしょう。ほかの大名らが、この処置に強く疑問を抱いた様子もありませんでした」
―― 筆頭家老の大石は藩内の異論を抑えて赤穂城の無血開城を決め、手元に残ったとされる約700両の資金で浅野家復興を目指しました。 「幕府の大名政策は、4代・家綱将軍の時代から大名改易に慎重になりました。政略的に取り潰していった外様大名の処置が一区切りついた上に、無禄(むろく)の浪人が増えすぎると社会不安の恐れが出てきたからです。慶安の変(1651年、由井正雪の乱)を未然に防いだものの、内容は浪人らによる幕府へのクーデター計画でした。いったん改易しても、減封して復活させるケースもありました」
「大石が内匠頭の弟である浅野大学を擁して、お家再興を目指したのは、不可能ではないとの感触があったのでしょう。赤穂城受け取りの目付である荒木十左衛門らに工作したようです。ただ浅野大学は元禄15年7月に浅野本家へお預かり(行動範囲を制限する軟禁の処分)となり、事実上再興の道は絶たれました」
―― 元禄時代は、商品経済が活発化した華やかな時代だった一方、寒冷・多雨・火事・地震なども相次ぎました。元禄14・15年は全国的な不作・飢饉(ききん)で、社会に先行き不透明感が漂っていたという指摘もあります。大石にしてみれば、首尾良くあだ討ちを達成しても、逆上した若い主君に続いて、高齢の武士貴族を遺臣が一方的に集団で殺害したと受け取られては元も子もありません。
「大石は注意深く江戸市中の世論を観察したでしょう。赤穂義士の事件が、社会の閉塞感を破る快挙として歓迎される素地がありました。討ち入り後の切腹処分が決まるまでに2カ月も要したのは、赤穂義士の行動を歓迎する世論を幕府も無視できず、その動向を見極めたかったからです。浅野大学は綱吉死去後の宝永期に500石の所領を与えられ、旗本になりました。他方赤穂藩は譜代大名の永井家に担当させ、その後は津山藩主を勤めて中国地方の政情に詳しい森家を入れました」。
―― 赤穂事件後の大名への政策はどうなったでしょうか。「最も重要な人事のひとつが領地替えでした。参勤交代には大名の年収の5~10%の費用が必要でした。領地替えの場合は、さらに10倍以上の経費を見積もらなければなりませんでした。1対1の領地交換だけではなく、玉突き人事で3方領地替えは10回以上、4方領地替えもありました。松平直矩という大名は7回転封となりました」
「領地替えの大名は、移転のための資金を捻出せねばなりません。自藩の御用金を回収し、出入りの商人らに『御頼(おたより)金』を要請し、江戸の豪商にも借金しました。藩士の引っ越し代は藩が拠出しますが、家族の分などは藩士自身の負担です。現実には家財を投げ売りしてつくるしかありません。それを見越して商人が城下を安く買いたたいて回ったという記録も残っています」
「領地替えの年の年貢を、旧領地と新領地のどちらが回収するかもトラブルの種になりました。ともに九州の大大名である細川家(肥後藩、熊本県)と黒田家(福岡藩、福岡県)は、これが元で100年以上も不仲だったと伝えられています。細川家藩主は参勤交代の際に、本拠地の熊本城から黒田領を迂回しつつ江戸へ上りました」
―― ただ徳川時代の後期には、移転費を負担してまでも実高の多い土地への領地替えを望むケースも出てきたといいます。
「財政難に陥っていた川越藩松平家は11代・家斉将軍の実子を養子に迎えて幕閣への影響力を高め、領地替えの運動を展開しました。天保11年(1840年)には川越藩松平家を出羽庄内へ、庄内酒井家は越後長岡へ、長岡牧野家が川越へという3方領地替えが発令されました。庄内は表高15万石でしたが、肥沃な庄内平野を抱えた上に貿易港の酒田湊も領有し、実高30万石を超えるとされていました」
「ただ庄内藩の領民は苛政の松平家を嫌い、反対運動を起こしました。大老や老中らに『駕籠訴(かごそ)』という直訴を繰り返し、水戸藩や仙台伊達藩、秋田佐竹藩、米沢上杉藩などにも訴えました。明日は我が身と考えたのでしょう、伊達藩を中心にした外様大名は連名で領地替えの大義名分をただす質問状を幕府に送りました。家斉の死去を契機に、12代・家慶将軍は3方領地替えを撤回しました」。
「いったん発令した人事を撤回したことで、幕府の権威に疑問符が付いたことは否めません。米ペリー来航の対応(1853年)や大老・井伊直弼の暗殺(60年)などで威信が低下したとされますが、幕府の揺らぎは、十年以上前からあったのです」。 (聞き手は松本治人)